50代半ばでADHDと診断されたデザイナーの僕が活かされた話

この話は、僕が50代半ばでADHDの診断を受け、自分自身を見つめ直し、新しい道を見つける経験を記録したストーリーです。

ADHDとの出会い

僕は平均の生活を送っているつもりでした。50代半ばまでそれなりに仕事(広告デザイン)もこなしてきました。ただ、少しだけ違うのは、仕事に集中しすぎて疲れてしまい詰めが甘くなり結果ミスが多くなる、他人の話を一度に聞くと全てを憶えることができない、理解のポイントが違っているなど、問題が多かったことでした。

若い頃からデザイナーを目指し就職しずっとその仕事を続けていたので経験もそれなりに積んで仕事ができているような気になっていましたが、漠然と自分には何か足りないような感じがありました。ただ、当時そこに正面から向きあうことはなく(というか向き合い方がわからなかった)、そのため自分の生活に無意識のうちに孤独を感じていました。

子どもの頃から「人と違う」とよく言われ、自身もそれに気づいていましたが、「そういう性格」という風に考え気にしたり、悩んだりすることはありませんでした。

そんな中、普段の生活の中でコミュニケーションのすれ違いを気にしていた妻から、私の行動や思考の特徴からADHDの傾向があると指摘をうけました。

妻から「一度診断を受けてみたら?」と提案され、当時自分も周りとの関係性に悩んでいたこともあり、妻の言葉に後押しされる形でクリニックを受診、結果ADHDと自閉スペクトラム症の診断を受けることになりました。50代半ばにして、自分がADHDの特性を持つ人間であると知ることになったのです。

 

自分を受け入れること

初めて自分の特性を知ったとき、僕は大きな衝撃を受けました。それは長年自分を悩やませていたことや失敗が、単なる性格や人格の問題ではなく、医学的に認められている障害が背景にあることを知ったからです。

それから僕は少し気が楽になり、障害のある自分を受け入れるように意識しました。また、服薬治療のおかげで思考の整理が少しスムーズになり、物事を俯瞰で見ることができるようになり、自身を客観視することもできるようにもなりました。

ただ、その影響のせいか、今までの自身の人生を振り返ることが増え、自分の思考や認知などもADHDに大きく影響されてきたことが理解できるようになり、自分自身のアイデンティティに悩むことが増えました。また治療を続けても改善されない症状も多くあり、そのいらだちから周りと衝突することも増え、以前とは異なった孤独感を抱えるようになりました。

しだいに周りとの関わり合い方がわからなくなり、何をしてもうまくいかない、失敗するイメージしか湧いてこず、気分が落ち込み、人と関わることに恐怖を感じるようになました。

そんな状態が続いたある日の朝、布団のなかで体が思うように動かないことに気がつきその日は一日中布団の中で過ごしました。そしてその症状は何日も続き、その間布団から出られず、職場も長期間休職することになりました。

診断と治療によって知った自分自身を受け入れるとメンタルが落ち込む、人とのコミュニケーションに全く自信が持てなくなる。結果、行動力まで奪われてしまう負のスパイラルが半年以上続きました。

そんなある日、ふと「この特性を生かせることもあるのでは?」という思いが生まれ、そのことについて考えることが多くなりました。

 

デザインの道

僕は、自身がADHDとは知らずに、迷いながらも長年デザイナーとしての道を歩んできました。

僕は、他人が考えることを理解することが苦手です。相手がどういった感情を持っているのか読み取れません(さすがに相手が怒っている時は分かりますが)。また、指示されたことの1つ2つ、酷いときはその指示を受けたことすら憶えていないことがあります。目の前の現象に気をとられて、指示されていたことから脱線して、別の作業、行動をしてしまうことも多々あり、さらに、その別の行動からの軌道修正がなかなか難しいということもあります。計画的に物事を進められない。時間や金銭に関して大まかなイメージしか持てず最終的に慌てることも多い。物をよく失くす。Etc. ダメな部分を挙げればキリがないほどです。

反対に良いと思われるところは、瞬発的に想像力や発想力が生まれる時があり、そういった時は自分でもびっくりするような集中力を発揮し作業に没頭します。あまり、没頭しすぎるのは良くないので、他の人に声かけしてもらうなどでコントロールし仕事やデザインに良い結果が生まれるようになりました。

そんななか、自分と同じようにADHDで苦しんでいる人たち、特に子供たちに「デザインの力で勇気づけるような新たなプロジェクトに挑戦したい」と思うようになりました。

僕は、「自分の不安を力に変える」をコンセプトに、想像力を最大の武器にして、お互いにデザインをすることで応援し合うような関係性をつくっていくような、新たらしい社会のあり方を描いていきました。

今の職場で、子どもたちにデザインを教える教室の企画が立ち上がり、その運営にかかわるようになりました。

子どもたちはまだ成長段階で、心身とも未発達な部分も多くあります。自身は発達障害という「脳の発達に偏りがある」状態であるため、子どもたちの悩んでいる状態に寄り添える傾向があることがわかりました。

そんな子どもたちと一緒に、デザインを通してコミュニケーションをしてゆき、一緒にクリエイトできれば、自分も子どもたちも新しい道が開けるような気がしています。

また、自分を表現したり、相手にわかりやすく伝える手法としてデザインを活用することで、例えば自分のような障害がある人間でもコミュニケーションしやすい社会が創れるのではと考えています。長年、デザインの制作現場にいた経験から、デザインは抽象的でわかりにくい情報を、いかにわかりやすく相手に伝えるかという作業だと考えているため、その「デザインの力」を、人と人が分かり合える社会をつくるための手段として、これからの未来を担ってゆく子どもたちに伝えたい、と思いが強くなっています。

 

誰にでも出来ること

今回、僕があえて自分の苦い経験をお話したいと思ったのは、「誰でも自分を正しく認識し、その力を生かす場所を探し、見つけることができれば、新しい道が開けるのでは」ということを伝えたかったからです。

ただ、その新しい道を見つけるまでは、何度も挑戦し失敗することもあると思います。それはとても苦しかったり、落ち込むことだったりするかもしれません。でも、ADHDの診断を受けた僕の場合、それを知った周りの人たちの理解も変わってくることもあり、これまでは独りで孤独に抱えていた問題や悩みを、誰かに話したり、気持ちを共有してもらえる環境ができたりして、支えや味方になってくれる人も増えました。

そして自分がその状況を理解できるようになると(服薬治療前は理解ができなかった)、たとえ失敗しても簡単にあきらめない事ができるようになり、しだいに成功体験が増え、自己肯定感も上がってゆき、メンタルによいスパイラルが生まれるようになりました。

50代半ばでADHDと診断された僕が、数年間粘り強くそれを育てて前向きになれたこと(まだ悩みや失敗に対する恐怖はありますが)、それを同じ悩みを持つ仲間(未来の仲間も含め)と共有し、少しでも寄り添う力になることで、障害のある人もそうでない人も生きやすい社会になるのではと信じています。

 

発達障害・神経発達症が日本において直面する課題とは?

  1. 診断と支援の不足:発達障害の診断や支援に必要な専門家の不足が問題となっています。また、診断や支援にかかる費用が高いため、経済的に困難な家庭では支援を受けることができない場合があります。
  2. 教育の課題:発達障害を持つ子どもたちに対する教育の課題もあります。
  3. 般的な教育システムに適応することが難しいため、特別支援教育が必要ですが、その充実が進んでいないという問題があります。
  4. 就労の課題:発達障害を持つ人たちの就労の課題もあります。就労支援が不十分であるため、就労が難しい場合があります。また、就労している場合でも、適切な職場環境が整っていないことがあります。
  5. 社会の理解不足:発達障害についての理解が不足していることが課題となっています。社会全体で理解を深め、差別や偏見をなくすことが必要です。

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